凌くんが見たカメラの向こうの景色

 

初めての記事はあんちゃんの感想にするって決めていました。

オタクは自担を目の前にすると語彙力がなくなりがちですがわたしも例に漏れず語彙力がないオタクなので生暖かい目で見守っていただけると幸いです。

あとクソ長いです。完全に自己満記録なので悪しからず。 

 

 

 

 

 

暗転した会場の中で、鳴り響く雨の音が晴れて舞台の上に眩しいスポットが当たったと思えば、そこにもう「凌くん」はいる。

最初から不機嫌丸出しの表情で、舞台の中央に立つ父、国男を見つめているのだ。

父が何を言っても頑なに口を開かない姉たち、まっさきに言葉を発するのは凌くんである。

 

「24年だよ!」

 

その言葉に水を打ったように静かになったあと、追い打ちのように「……24年ぶり」と付け足す。ここでまず、年をきちんと数えて把握していたのは凌くんだけなのでは?と私は思った。国男はべつに正確な年月を知りたくて「何年ぶりだ」だなんて言ったわけではないだろうに、その年月の間にどんな思いで凌くんは父を待っていたのだろうか。

凌くんは3人姉弟の一番末っ子、いちばん幼かった凌くんは父がいなくなったときのことをはっきりと覚えていなくても当たり前なのに、まるで昨日あったことのようにはっきりとした口ぶりでそう告げるのは、父がいなくなったことへの想いがとても強かったからではないだろうかと思う。

そのまま話は進み、2人の姉は国男と話すことを嫌がり逃げるように部屋を後にするが、凌くんだけは部屋に残り、ソファに腰掛けて父と会話する。「24年ぶり」告げた年月など感じさせない会話に、心なしか凌くんの表情も優しいものである。

他愛もない会話、話を切り上げて出て行こうとする国男を躊躇いながら引き止める凌くん。

 

「待って!」

 

その声はどこか幼くて、縋るように弱くて、まるで小さい子供のようなものである。

振り返る国男に、自分のアルバイト先であるダビング屋の番号を突きつける。

 

「それ店の番号だから、来るとき連絡して」

 

つい先ほどとは全く違う、そっけない口ぶりで告げる凌くん。そしてそのまま、家を出て行ってしまう国男の背中をぼんやりと見つめる。

暗くなる会場、響くピアノと雨の音、ピンスポットは凌くんと、凌くんの部屋にある黄色い制帽へと絞られる。

 

「24年前」の凌くんと父国男、母瑛子へと舞台は変わる。

のめり込むようにゲームをする凌くん、気づかれないようにそっと足音を消して近づく国男と瑛子。国男の手には8ミリカメラが握られている。

勢いよくドアを開けて入って来る国男と瑛子に大きく声をあげて驚く、やたらにテンション高く迫って来る両親に凌くんはついていけないままあくまでゲームに集中しようとしていれば、国男が口を開く。

 

「お前さあ、弟が欲しいって言ってたよな!」

「……うん……」

「もしかしたら、できるかもしれないぞ!」

 

そう言われた瞬間、凌くんはゲームの手を止めて初めて国男に目を向ける。

 

「…なんて言ったのいま!」

「もしかしたら、弟ができるかもしれないぞ!」

「うそぉ!!!!」

 

ファミコンのリモコンを落として立ち上がる凌くん、目を煌めかせて国男を見つめる。「いつ生まれるの?」「名前は?もう決まった?」などとせっかちに両親に質問を投げる。

心の底から嬉しそうな凌くんに国男も瑛子も嬉しそうで、瑛子は凌くんを抱きしめる。

そんなやりとりの中で、国男はこう言う。

 

「これからは、あんちゃんって呼ぶか!凌のこと」

 

幼い凌くんは聞いたことがない単語に首をかしげる

 

「お兄ちゃんって意味だよ」

 

そう言われて「あんちゃん」と繰り返す凌くん、続いて「あんちゃん」と呼びかける国男に瑛子。その表情は次第に明るくなり、凌くんは心の底から嬉しそうに言うのだ。

 

「『あんちゃん』かあ!」

 

ここでオープニングのピアノが鳴り響くのが、たまらなくいい演出だとそう思った。

凌くん、国男、瑛子の3人は8ミリのビデオを回しながら楽しそうにふざけている。国男が向けるカメラに凌くんは「あんちゃんだよ〜!」などと言って手を大きく振ったり、伸びをしてみたり。瑛子も楽しそうに凌くんと一緒に笑顔を振りまいている。まさに理想の家族であり、ただ純粋に喜ぶ凌くんは、なにも汚れを知らない「こども」だった。

舞台は暗転して、オープニング映像が流れる。舞台の上をカメラを持って駆け回る凌くん。その意味は、後から明かされる。

 

さて舞台がまた明るくなれば、凌くんはまた不機嫌そうにゲームに勤しんでいる。

この時にはすでに国男は蒸発しており、凌くんは不登校になっている場面なのである。

凌くんの担任である芹澤が凌くんに向かって九九を練習させており、凌くんは一度もその呼びかけには応じない。

母瑛子が8の段を間違えまくるシーンであり、舞台始まって最初の「お笑いシーン」である。

膝に置いていた膝を落として呆れる→ファミコンのリモコンを落とす→お茶を注いでいる途中に机に盛大に足をぶつける→お茶を口に含んだ後思いっきり吹き出すという激烈かわいい凌くんが炸裂するシーンである。凌くんかわいいシーンの中でも三本の指に入るかわいさ。

帰ってきた准にランドセルをぶん投げられて怯えたりなどなど、かわいい凌くんが凝縮されている。

その後芹澤は「凌と話したいことがある」と1人部屋に残る。

凌くんを部屋から出てくるようにドア越しに話をする。

 

「未来は一方向だけに進んでいるわけではない。私が選択できる未来もあるはずだ、って。違う未来を選択すれば、いくらだって幸せになれる。違う未来を選択しよう。そのために、まずは部屋から出るんだ。」

 

その言葉に立ち上がり、凌くんはドアを開ける。わかってくれたか、と嬉しそうな芹澤をよそに、凌くんは仏頂面のままこうたずねる。

 

「……違う未来を選んでも、不幸になったらどうすんの?」

 

ごもっともな質問に、芹澤はうまく答えられず言葉を濁す。困ったように笑ってみることしかできずに凌くんに笑いかけていれば、凌くんもにこにこと笑う……のだが。

次の瞬間にバン!とドアを閉めてしまいその表情も先ほどよりもずっとずっと不機嫌になっており完全にジト目で、この凌くんがわたしはこの舞台の中の小学生凌くんで一番好きでした。() きらきらにこにこ笑ってたと思えば一瞬でジト目になるギャップと表情の切り替えがたまらなくていつもニヤニヤしながら見ていました……

 (ちなみに芹澤先生に劇の話をもちだされ、「それって、すっごい個性だと思いませんか?」の時の心の底から「ハァア?」みたいな顔をしている凌くんも死ぬほど推しています)

 

次点で好きな凌くんといえばやはりちくわぶしかないのではないだろうか……基本的に8歳の凌くんはどこか舌ったらずで声も幼く語尾を伸ばしがちなのだけれど、それに拍車をかける大根役者ぶり。

きっとやりたくない役を無理やりやらされているというところもあるのだろうが、それにしてもやる気がない。かわいい。かわいい

 

「僕は、絶対に、あきらめませぇーん」

「いいなずけがいても、かまいませぇーん。僕は、あなたと、一緒になりたい!」

「はんぺんちゃん……」

「僕は、そうは、おもいませぇーん。はんぺんチーズは、確かにおいしい。でも、あなたは、おでんとしても、十分に、やっていけるはずです!」

「こんぶくん……」

「それがなんだっていうんだい?」

 

これがちくわぶ凌くんの全セリフであるのだが、あきらかにすべてひらがなで表記しても問題のなさそうな凌くんの口ぶり……語尾を伸ばす話し方……めっちゃくちゃ嫌そうな顔……そして瑛子に煽られてる時のクソクソ嫌そうな顔……この世のかわいいを凝縮して放出させて具現化したら、きっとこんな感じなんだろうなという光景が舞台の上で繰り広げられていて、防振双眼鏡を覗きながら口元だけでにやける変質者と化していました。

こうやって振り返って見ると6つしか台詞はなくて、ほんとに時間的にも5分あるかないか?ぐらいの場面であるのにこんなに幸せになれる瞬間あっただろうか……(いやない……)

 

そして劇の練習が終われば、芹澤は瑛子に話があると持ちかける。

話があると言ったにもかかわらずなかなか本題を切り出さない芹澤に、部屋にこもっていた凌くんは鍵を開けて部屋から出てくる。

 

「……パパに会ってきた」

 

その言葉に目を見開く瑛子。芹澤は凌くんを落ち着かせようとするが、凌くんは止まらない。

 

「パパんとこ行きたい」

「…………いっても、いい……?」

 

動揺する大人たちをよそに、凌くんはただ自分の気持ちだけを吐露する。

凌くんは、意外と末っ子らしく、誰よりも頑固でわがままなのかもしれない。国男が家を出た時も、部屋にこもってゲームをして心配をしてもらおうとした。この場面でも、自分の意思を突き通すためだけに口を開く。父に会いたい。その気持ちだけが凌くんを動かしてその幼いこころを揺らす。

 

「了解取ってこいって……そしたら、おかあさんと話すって」

 

そんな凌くんの気持ちをよそに、瑛子はこう告げるのだ。

 

「押し付けないでください」

「凌ちゃんのこと可哀想だって思うのは、もうやめていただけませんか?」

「了解なんてしない、するわけないでしょ?」

「お母さん、ずーっと凌ちゃんと一緒に暮らしたいもの」

「だから、お父さんと話することなんてない」

 

凌くんは、少なからず瑛子が国男と話をしてくれるという希望的観測を持って、勇気を出して部屋から出て、自分の口で、父の元へ行きたいとそう告げたのに、瑛子はそんな気持ちをばっさりと切り捨てる。「了解なんてしない」そう言われた瞬間に、はっと見開かれる目がとてつもなく苦しくてつらいと思っていつも涙が出た。きっと国男と仲良しであったであろう瑛子、そんな瑛子ですらも国男との交流を断つと言うのだから、そのときの凌くんの悲しみはきっと計り知れないものであるだろう。

 

「あの人に伝えてください、もう絶対に凌ちゃんに会わないでほしいって」

「それでいいわよね?凌ちゃん」

 

そう言われて、頷ける子供がいるのだろうか。父を慕い、ただ父に会いたくて、父のそばにいたくて言っただけなのに、もはや父に会うことすらも許されなくなってしまう。凌くんはうつむいて言葉をなくしてしまう。握り締められた右手には先ほどまで部屋で1人遊びに使用していたボールが握られている(後から理由はわかる)黙りこくってしまった凌くんに、瑛子は追い討ちのように告げるのだ。

 

「……行かないで……お願いだから……お母さんと一緒に…ずっといてよお……!凌ちゃん……!」

 

泣き声が混ざったその言葉に、凌くんは我に帰ったように顔を上げる。泣き出した母にうろたえながら、凌くんは目を泳がせる。その瞳は十分なほどに濡れ、今にも凌くんも泣き出してしまいそうであるのに、凌くんが強いのはここからなのである。

手に握ったボールをポケットに戻し、瑛子のほうへ向き合って、小さいけれど、震えているけれど、確かにこう言うのだ。

 

「……行かないよ」

 

「もう、……どこにもいかないから」

 

きっと泣き出したいのは凌くんの方で、それでも、凌くんの前でいちばん弱い姿をみせる母を、安心させるために言った「もう、どこにもいかないから」。この台詞が重すぎて、重すぎて、涙を流さずにはいられなかった。

凌くんはまだ8歳。このあとの場面で明かされる「凌くんは『あんちゃん』にはなれなかった事実」のときの台詞に

 

「もうあんちゃんじゃないから」

「お腹の子は、天使になって飛んでったんだって。母さんが言ってた」

 

凌くんは、まだ8歳なのである。

あんちゃんになれなかったこと、下の子が生まれなかった事実を、母の瑛子はオブラートに包んで凌くんに伝えた。

凌くんは、瑛子に言われた言葉そのままを信じて、自分があんちゃんになれなかったことを受け止めているのである。

あんちゃんになれなかった。それがどうしてかなんて凌くんにはわからない。凌くんは、まだ8歳なのだから。

そんな事実すらも理解できない「こども」の凌くんが言った「どこにもいかないから」の責任は、その小さい背中に背負うにはどうしようもなく大きくて重いものであるはずなのに、凌くんは甘んじてそれを受け入れる。

そう言われて、泣き顔で笑う瑛子に向かって、凌くんも笑うのだ。自分の気持ちなんて押し殺して、ポケットにしまったボールと一緒に。

凌くんは母と生きることを選んだのである。

 

さて上記で述べた凌くんが父国男に芹澤と会いに行くシーンであるのだが、こちらもどちらかといえばコミカルなシーンも挟まれており、救いのある描写でよかったとそう思う。

芹澤に連れられ、工事現場に連れて来られる凌くん。芹澤が飛ばす冗談にも笑わずに、久しぶりに対面する父にどこか緊張しながら遠慮して言葉を選んでいるように見える。

劇を見にこれないと言った国男に、お前が説得するんだと芹澤はキャッチボールをすることを持ちかける。

渡されたグローブとボール、2人残されたところで国男は凌くんに投げてみろと言う。

キャッチボールが初めてで、ボールをうまく投げられない凌くん。国男は、「ボールの握り方も知らないのか?」ボールの持ち方から教えてやる。

言われた通りにボールを持ち、投げる凌くんに国男は嬉しそうに凌くんのことを褒める。

ここで凌くんはとても嬉しそうに笑うのだ。はじめての父とのキャッチボール、父に褒めてもらえて、父と遊べて、そのすべてが凌くんを笑顔にする。凌くんは国男のことが本当に好きであることがわかる。

まさに幸せな家族そのもので、見ているだけで心が温まったのを覚えている。

学校でからかわれることを国男に話して、学校に行きたくないと告げる凌くん。パパんとこくればいい、そう言われて凌くんは涙ぐみながら言う。

 

「行きたい……!パパんとこ……!」

 

これがきっと凌くんの本心であって、嘘ではない気持ちなのだ。

ここで「ママの了解だけはとってこい」と言われる凌くん、うなずく顔は純粋無垢な子供のまま。このやり取りがあってからの、上記で述べたようなことがあったと思えば、凌くんの悲しみと絶望、やるせなさはもう抱えきれないものであったはずである。

それでもこの思い出を胸に、凌くんは父と暮らすことを諦めた。凌くんの父との思い出は、ここで止まってしまったのである。

BEST STAGE 2017年9月号51ページに、とても腑に落ちる表現でこの凌くんを表現した一文があった。

 

「自分の半分は成長しても、残り半分は、失った欠片のせいで、成長できず、少年性は大人になった今も残ったままだ。」

 

凌くんは、父との最後の思い出であるキャッチボールをしたこの日から、子供の自分を引きずったまま大きくなってしまった。それが父が帰って来たことにより、やっと昔の自分と決別することができたのではないだろうか。

 

このことは、凌くんのバイト先であるダビング屋に国男が来た後、天狗で呑むシーンでも表れていると思う。

もうお酒も飲めるほど大きくなった凌くん、父との2人酒。この時の凌くんは、この舞台あんちゃんの中でいちばん優しい顔をしている。

声も、表情も、仕草も。すべてが柔らかくて優しいのだ。

ようやく会えた父との思い出の更新を、心から喜んでいたからこその態度なのだろう。

 それでも、父国男は凌くんとのキャッチボールの思い出は覚えていないのだ。

 

「覚えてないの?」

 

そう聞き返す凌くんの表情は驚きと失望が混じったものに変わってしまっている。

自分が心の奥底にしまっておいたただひとつの大切な思い出を、忘れたとそう態度だけでも示されてしまえば失意にうちひしがれるのは当然のことだろう。

ビールが注がれたグラスを握りしめたまま、凌くんは8歳の自分を思い出してしまう。父が消えて、ただ会いたいと思っていた、あの日の幼すぎる自分のことを。

 

凌くんは、父が自分の前から去ろうとする場面ですべて、父を一度引き止める。そしてまた、「会う約束」を取り付けるのだ。

もう二度と、自分の前から何も言わずにいなくなってほしくない。「待って!」その子供のような呼びとめかたに、いつも胸が締め付けられるような思いがした。

その「待って」にまた父がいなくなるかもしれないという恐怖と、また、もう何回でも父に会えるという希望が込められていたのかは、凌くんの表情だけでも伝わって来た。

 

国男が持って来た8ミリのテープ、それをダビングした凌くんは家族みんなにそれを見せることを決意した。

DVDは見る前から姉2人に「それってただの盗撮よね」と無下にあしらわれてしまい、そこから姉2人は泣きながら辛かった過去を吐露する。

 

「だからすまないとか、……そういう言葉聞きたいんじゃないって!」

 

毎回冴のこの台詞でわたしはいつも泣いてしまっていた。自分の感情をむき出しにして叫ぶ冴、その後凌くんは静かな声でこう言うのだ。

 

「……なに言ってんだよ、結局自分のためだったくせに」

「いいこと教えてやろうか。人の為って書いて偽りって読むんだよ」

 

いつも姉2人の後ろでおとなしくしていた凌くん。しっかり者の冴、強気な准の2人の下の弟という立場で、きっとそれなりに肩身狭く、時には姉を頼って生きて来たであろう凌くん。

そんな凌くんが静かに、それでも確かに姉に対して吐いた棘。その言葉はどんどん強いものになっていき、BGM代わりになった雷雨とともに姉2人へと向かう。

 

「煩わしかったんだろ!?ずっとめんどくさかったんだろ!」

「母さんがやっていいって言ったことはやらないで出てかないでって言ってんのに出てくってどういうことだよ!」

 

この言葉を凌くんが叫ぶ頃にはいつも泣いて泣いてハンカチで顔を抑えながら舞台を見つめていた。

凌くんは誰よりもきっと家族を思って、父のことも、母のことも姉2人のことも思っていてくれていた。だからこそ、こうして自分の気持ちを叫ぶように吐き出して、はっきりさせたかったのだ。

「父がいなくなった」ということを大義名分にして父を、父だけを悪者にする姉を、間違っていると言いたかったのではないだろうか。

また、凌くんは30歳にしてアルバイト、実家暮らしで姉2人にはやいやいとうるさく言われていたが、もしかしたら。学生の時から家を出た姉2人、母に止められても構わずにいなくなった2人を見て、悲しそうにする母にこれ以上寂しい思いをさせたくないと思って家に残り続けているとそう考えるのは、わたしの考えすぎなのだろうか。

「……もう、どこにもいかないから」

あのとき言った言葉の呪縛に、凌くんは今も深層心理の中で縛られているのではないだろうか。

 

激しくなる口論に瑛子は泣きながらそれを止める。国男はと言えば泣きじゃくる瑛子にお茶を渡してそれを鎮めているが、結局姉弟の口論にはなんの口出しもせず傍観しているだけ。

帰って。そう言われて立ち上がり帰ろうとする国男に、凌くんはまた叫ぶ。

 

「帰るなって!」

「今出てったら……前と同じだろ?」

 

前、とは国男が家を出たその日のことを言っているのだろうけれど、凌くんはその時のことを覚えているのだろうか。なにも言わずに出ていった、父のことを。母や姉たちや自分に、苦労だけ押し付けて去った父のことを。

 

それでも、父には姉弟に隠していたことがあったのだ。

「健忘症」という病にかかっていて、本当に凌くんたち姉弟の記憶がない、ということ。

その事実を受け止めきれない凌くんたちは呆然と立ち尽くす。「都合よすぎるじゃない」本当にその通りだと思った。きっと凌くんだってそう思っただろう。信じられない、そんな顔をする凌くんの表情は痛々しくて仕方がなかった。

やっと会えた父は、自分のことなどなにも覚えていなかったのだ。本当の絶望に向き合えば、言葉すらなくなってしまうのだ。

最後にまた謝罪をして、出て行こうとする父。

呆然としていた凌くんは、我に帰ったように叫ぶ。

 

「だから帰るなって!」

「思い出せよ……ちゃんと!俺たちのこと!」

「ちゃんと思い出すまで……ここにいろって!」

 

帰るな。いなくなるな。思い出せ。あの日のことを。父と過ごした、あの最後の日のことを。

場面は切り替わって前述したキャッチボールのシーンになる。

凌くんと国男の、最後の思い出。

 

その後にまたシーンは切り替わる。凌くんはビデオカメラを片手に、父のドキュメント映画を撮るとそう豪語する。

国男、瑛子、冴、准、そして自分自身、凌。

1人ずつ紹介をした後に、凌くんは座り込んで国男を写す。

 

「初めて父とした……キャッチボールが、忘れられず、すぐにでもこの家を離れようとしましたが、それもできず!……それから、父に会うことはありませんでした」

「健忘症になった父は、まったく覚えていないと思いますが、……あのキャッチボールが、父との、一番の思い出です!」

 

「……あなたには、……こういう、家族がいるんです……思い出してください!ちゃんと思い出して、苦労をかけた、母や!姉たちに!心の底から、詫びてください!」

 

 凌くんは、最後まで自分に謝れなんて言わなかった。

確かにいちばん苦労をしたのは母瑛子であるだろうし、その母を積極的に支えたのも冴や准である。

けれども、「父に会いたい」そう願っても叶わなかった凌くん。その年齢に合わない責任を背負わされた凌くん。そんな凌くんにも、国男は詫びるべきだとわたしは思った。

凌くんは、あの時背負った責任を少しでも下ろせたのだろうか。そう思っているうちに、舞台は暗転していく。

 

舞台が明るくなれば、国男が天狗でちくわぶを食べている。

凌くんが現れて、凌くんがあんちゃんになれなかった理由、冒頭で流れたやりとりの動画を国男に見せる。

 

「でも……今更凌って呼ぶのもなあ」

「別にいいじゃん」

「いやなんか、照れるっていうかさ」

「息子の名前呼ぶのに、照れる親がいるかよ」

「まあ……そうなんだけどさ」

 

動画は流れ続ける。パソコンから流れる音声の中の国男が、8歳の凌くんに向かって呼びかける。

「これからは、あんちゃんって呼ぶか!凌のこと!」

それに重なるように、国男は口を開くのだ。

 

「……もう少し、あんちゃんって呼んでてもいいか?」

 

そんな国男に凌くんは微笑む。少しだけ恥ずかしそうに、でもどこか誇らしげに。

 

「……わかったよ」

 

そして舞台の上に響くのは、パソコンから流れる、瑛子と国男の声。凌くんに向かって呼びかける、その愛称だけ。

 

「あんちゃん!」 「あんちゃん!」

 

 

こうして、舞台「あんちゃん」は幕を閉じるのである。

 

 

 

本当に考えさせられるお話だと思いました。

わたしは恵まれた家に住んでいる、それでも毎日不満はあって。そんな贅沢な悩みすら、なくなってからしか気づかないことが怖いと感じました。

舞台の上に立つ北山くんは、ほんとうに「凌くん」そのもので、台詞がないシーンでも、表情だけで魅せる演技がすごくて、悲しそうに何度も瞬かれる瞼や、優しく微笑む口元が、すべて「凌くん」という人間をやりきっていて、何回も何回も泣いていました。

東京新大久保、大阪森ノ宮。全34公演、北山宏光くん主演舞台「あんちゃん」

ほんとうにお疲れ様でした。何事もなく幕が降りてよかったです。凌くんという人物に出会えて幸せでした。最高の感動と、思い出をありがとう。

また、この舞台を作って、北山くんを抜擢してくださった田村さんにも多大なる感謝を。

全公演駆け抜けてくださったキャストの皆さんにも惜しみない拍手を。

舞台の上の北山くんを見て、元気と勇気をもらえました。

本当に本当にお疲れ様でした!ありがとうございました!

 

 

 

 

 

 引用: 『BEST STAGE』2017年9月号 P.51 株式会社音楽と人